読書感想「英国シューマッハー校 サティシュ先生の最高の人生をつくる授業」
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購入:2013年8月10日 1,575円
読了:2013年9月30日
スローライフの香りというか、そんな感じがした。もっと、学問的なものなんだとは思うが。自然の中で体験を通しながら納得していく過程がなんともいい。シューマッハ校で、対話を通しながら学ぶ姿もとっても理想的。
途中、ガイア理論などを展開して学んで行くが、アニミズムの要素も含んでいるのだろうか。
私たち動物、もしくは、人間の生き方、考え方を地球上の植物や自然界に存在する岩などの無機物に例えて考えると、なるほどそうかと納得できる部分がたくさんある。また、そんなに複雑に受け取り、悩むものじゃないということもわかる。でもなぁ、そうは言っても実際に何かに対面してしまうと、悩んでしまうものなのですよね。難しい。開眼した!と思ってもその時だけで、けっきょく、いつもの自分に戻っているわけです。
ふうっ。
「もの」にも、量ばかりでなく、質、人でいえば人格のようなものがあるという考えは、世界中に見られる。たとえば日本の古い神道的な考えでは、あらゆるものに神が宿るとされている。しかし西洋の近代的な考えでは、自然界にそうした「質」を認めなかったのだ。 (P94)
アニマ・ムンディとはラテン語で「魂ある世界」というような意味だ。 (P95)
たとえば、インド哲学では意識というものが中心にあって、物質は意識から生まれると考えられてきた。これと対照的に、西洋の近代科学では、多くの人が「すべては『もの』の中だけで理解される」としてきた。意識というものの存在を省いてきたのだ。 (P95)
「もの」と「意識」は別物。当たり前の考え方のように思われるが、それはわたしが西洋かぶれだからだろうか。
そしてステファンは、ガイア理論に出てくるこんな難しい定義を僕たちに投げつけてきた。
「世界は単なる客体的な物体の集まりではない。対象物に汰イズルウ主体の霊的な交感(コミュニオン)である」 (P96)
その場にいた学生ではないが、意味がまったくわからん(笑)。次の解説を読むと、なんとなくではあるが、わかるけど。
たとえば、とステファンはすぐ近くにあったテレビのリモコンを手にとっていう。この内部には炭素原子がつめこまれているが、そのことに対して私たちは、「地球上を自由に流れているはずの炭素原子をプラスチックの中に閉じ込めている」と考えることができる。しかし同時に、「そんなことをされて炭素はどう感じるだろうか」という疑問を持つこともできる。
つまり、世界をただ量として考えていたらありえないような疑問が、質について考えることで生まれるのだ。 (P96)
見方、考え方を変えるという意味ではわかる。「量」と「質」。最近、なんだか、この言葉がいろんな方向から耳に飛び込んでくる。
物を売るための広告や宣伝も、これまでの教育も、意識的に私たちを自然界から分離させるように仕向けてきた。なぜなら、自然から切り離されることによって生まれる空白を、人は他の何かで埋め合わせようとするから。たとえば、空白を埋めるためにモノを買ったりね (P99)
だから、もし君たちが川辺に座って自然と対話するなら、それは一種の抵抗なんだ。社会変革のための政治活動といっていいかもしれない。自分の中にあるエコロジカルな感受性を再生させることさえできれば、もう消費社会の奴隷であることもなくなるからね。 (P99)
キャンプなどに行ったときの息子の様子と重なる。家にいると、有り余る時間をどうにかしようと、多くの場合、ゲームに没頭する。しかし、キャンプに行くと、近くにゲームがあったとしても、つりや自転車、ボードで走り回る息子が見られる。
地球という生命は、機体をつくり出しているだけでなく、大気の組成まで制御し、調整していた。つまり、生命は自らが繁栄するために、それに適した大気をコントロールしながらつくっていたのではないか……」
この考えをもとに、彼はこれまでの科学の理論をすべて書き換えることになった、とステファン。 (P104)
酸素はどうして、ずっと地球上に2割存在し続けるのか。酸素が生きていると考える。そうすることで説明可能なことが増えるという。空気、岩、水。なるほど。
たとえば、ガイアのセルフ・レギュレーション、つまり「自己規制」という働きだ。それ自体は一見非生物に見えるモノと結合し、あるいは協働することによって、いのちが自らを維持していくために必要な環境をつくり、それを保っている。つまり、人間の身体がやっているようなことを、地球全体もやっているということだ。そのことを指して、現代科学の言葉でも、「地球は生きている」というようになった。 (P105)
塩を基本的な要素に分解すると、塩素とナトリウムになる。でも、塩素を吸い込んだら死んでしまうし、ナトリウムを水に入れたら爆発する。その二つの要素からなるものを、人間は食べものにかけて、味付けをしたりしているのだから、不思議なものだ。
さて、この塩を塩たらしめている「塩らしさ」のことを、エマージェント・プロパーティ(創発特性)という。何かと何かが新たに融合したときに、まったく予期しない、新しい質がそこに誕生するということだ。 (P105)
この表現、そして、考え方、おもしろい。本質とは別な例えにも、塩素、ナトリウム、塩の部分は使えそう。
そこで次の問題は、では、この地球での人間の役割とはいったい何だろう。ということだ。その問いに、ステファンは自ら答える。それはたぶん「知性」ということになるだろう。ガイアは、その生命を維持するために人間の知性を必要としているのではないだろうか。地球が地球を、つまりいのちがいのちを維持するために、やはり人間も役割を与えられているに違いない。 (P107)
私自身、宇宙を構成する一つとして、役割を与えられているとしたのなら、その役割をしっかりとはたしたい。そう考えることができるたとえ話だ。
「雇用されるとは、才能や想像力といった君の人間性が、一種の道具として企業のお金儲けに使われてしまうということだ。だから、ご両親にも『私は雇用を求めない。仕事を創る』と伝えてほしい。仕事を創るというのは、自分がやりたい仕事に君自身が『なる』ということだよ」 (P124)
まるで「海賊王に俺はなる!」と宣言しているルフィのようだ。確かに、あこがれはするが、一番は「食べていく」という部分において、現代社会の枠組みで生きる限り「雇用されない」という生き方はなかなか難しいと思うのだが。
シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』に出てくる仕事論によれば、仕事には三つの重要な役割があるという。ひとつ、各自が自分のうちにある潜在的な可能性を発揮し、向上する場を提供すること。ひとつ、他者と共に働くことで、自己中心的なからから抜け出すこと。ひとつ、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すこと。 (P124)
この仕事の定義(役割?)はチェック!
かつて、サティシュは「より良い社会」についてこんなことをいっていた。
「私たちが豊かに暮らしていくために必要なものは何か。歌、踊り、詩、文学、そして祝祭だと思う。そして工芸や芸術をもっともっと増やしていくことだ。そうすることで、『量』から『質』へ社会が変わっていく」 (P125)
「量」より「質」ね。
わたしは、まだまだ質を求められない。
サティシュによると、ヒンドゥー世界では、幸せは「SUKHA(スッカ)」という言葉で考えられるのが一般的だ。その意味は「苦しみの不在」だ。苦しい状態ではないこと、それがすなわち「幸せ」だというわけである。
そしてスッカは「苦しみ」という意味の「DUKHA(ドゥッカ)」という概念と対になっている。スッカは明るさ、ドゥッカは闇という意味も持つ。
しかし、明るいにせよ暗いにせよ、それは特別なものではなく、どこにでも普通にあるものだ。太陽はいつもそれに輝いている。夜には闇がやって来るが、それは太陽が消滅してしまったということはない。それと同じで、スッカはいつもそこにある。決してなくなりはしない。それが目に見えているか、少しの間見えなくなっているかの違いだけなのだ。 (P130)
なるほど。こう考えると、幸せって何だろう・・・などと不毛に考えることはなくなるか。
サティシュがいうには、この西洋的な考え方(「幸福は追求するものであるという考え」:阿部が追加)では、幸せとは「常に追い求めるべき、何か特別な状況」として想定されている。これはスッカという考え方と対照的だ。スッカは追い求める対照などではなく、どこにでもある日常的でナチュラルな状態である。それはいつもそこにある。 (P130)
外にあるものなのか。内に存在するものなのか。物質的なもの、外的要因のもの。それとも、精神的なもの、内的要因のもの。うーん。こうして言葉にしてしまうと、陳腐。しかも、西洋的な思考で書いているので、意味的におかしくなるかんじがする。
すべては、自分自身の中にある。幸せは今そこにある。すなわち、自分自身の中に。そしてそれを見つけ出すのも、やはり自分自身なのだ。 (P131)
うーん、わかるけど、難しい。今、自分の中に幸せを見つけて、感じろと言われてもね。食べていけるだけの収入があり、家族がいて、それぞれに自分なりに生きているわけで、それ以上何を求めるのだと言われても仕方ない。だから、これで幸せなんだろうけどね。細々とした悩みがあるわけで・・・。
「仕事と遊びに明確な区別はないんだよ」と彼は学生たちに語りかける。仕事とは、自分の人生を幸せな、満ち足りたものにするためのもの、その意味では遊びと同じだ。そう考えれば、仕事が苦しいもの、怖いものだという感覚もなくなる。
だから、こういってしまってもいいんだ、とサティシュ。
「仕事は遊びであり、遊びは仕事だって」 (P132)
たしかにこう思えると最高だと思うけどね。また、若い時はこんな感じだった。昔、自分のホームページにも書いていたことがある。
そして、「幸せで満ち足りた生活を送るために必要なことがある」という。短い沈黙のあと、彼は続ける。
「それは自分に対する自信と信頼だ」 (P132)
なるほどだけど、自信と信頼をどうやって身につけるかが問題だ。
自分の可能性を信じることだ。信じて自分がやりたいと思うことをやる。そうすれば、まるで遊んでいるように仕事をすることができる。逆にいえば、自分に自信がないから企業の雇用を求めてしまう。自分以外によりどころを求めてしまう……。 (P133)
確かにそう。
では、自分を幸せで満ち足りた存在にするとは、どういうことか。サティシュはいった。
「自然に対して、他人に対して、善いことをするんだ。他の存在を幸せにすることで、自分も幸せになれるのさ」 (P133)
よく言われているから、これもわかる。しかし、自分の幸せのために、自己犠牲をするというのはある意味矛盾なわけで、わからないひとにはわからないだろうな。また、私のように、何にもやりたくない人にとっては・・・。うーん、ま、そういう人間は「働かざる者、食うべからず」なのか。
「自分がどうやって人を幸せにしたいかを、それぞれが考え、実行する。でも、いいかい、決して自分を過小評価しないこと。自分は素晴らしい存在で、素晴らしい仕事で人を幸せにできるんだということを常に実感してほしい」
たとえば、農家が果物をつくる。それは素晴らしい仕事だ。なぜなら、果物を食べた人が幸せになる。そしてそのことで、自分も幸せになれる。
そしてサティシュは、こうまとめた。
「何かをつくるというのは、素晴らしい仕事だ。だから君たち自身も、まず仕事をつくってほしい。それが質問に対する私の答えだよ」 (P134)
なるほど。そうか。58までにそれを考えたい。蓄積したい。
まずは自分に自信を持つことだ。自分はやりたいことをやって生きていけるんだと実感してほしい。そこでたいせつなのは、自分が何をしたいかを見つけることだ。さっきも話したように、人を幸せにするために自分は何ができるか、を考えてほしい。
それから、そのためには何を学ばなくてはいけないかを知る。それが分かったら、そこにエネルギーを注ぎ込み、一生懸命に学ぶ。そうすることで、どんどん上達できる。つまり、ドングリが木へと成長していくんだ。 (P135)
イメージとしてはわかった。
リンゴの種は、すでにリンゴの木、リンゴの実になる可能性で満たされている。当然のことだ。だから、農民がリンゴの種に手を加えたり、外から何かを持ち込む必要はない。農民がすべきことは、リンゴの種が芽を出し、すくすくと育つように土を盛ったり、水をあげたり、囲いをつくったりすることだけ。
「もちろん、リンゴがリンゴになるための『教育』など必要ないよね」とサティシュはいってみんなを笑わせた。そして、「人間についても同じことさ」と。彼によれば、リンゴは人間が「育てる」ものでさえない。それは「育つ」ものであり、自らの可能性を発現していくものだ。僕の日本の友人たちの中にも、「子育て」の代わりに「子育ち」という言葉を使おうという人たちがいるくらいだ。 (P138)
この例えは、わかりやすい。すごく納得できる。
「本当の仕事とは、自らを幸せに、満ち足りたものにしてくれるものだ。それによってお金を得たとしても、自分の人生が満ち足りたものにならないのであれば、それは本当の仕事とはいえない」
仕事の目的はお金ではない。それさえ間違わなければ、自分がやるべき仕事がきっと見つかるはずだ。雇用を前提にして考えてはいけない。サティシュはそいういいたかったのだろう。 (P139)
お金ではないことはわかっている。しかし、今現在、置かれている自分の喪失感は何なのだろう。これは、また違った文脈になるのか?
「この学校ではシェイクスピアやダーウィンを学ぶ前に、トイレ掃除やガーデニングを学びます。だから、シェイクスピアやダーウィンをよく理解できるのです」 (P139)
なるほどなぁ。理解できるための、体験や経験が大切なんだよなぁ。
サティシュが提唱する教育の公式「E=4H」をもう一度思い出そう。Eは教育(EDUCATION)の頭文字。4HはHEAD(頭)とHEART(心)とHANDS(手と体全体)、そしてHOME(家庭)だ。 (P140)
学校は小さいほうがいいということは、よくわかる。
親子関係の難しさは、主に親であることの難しさなのだ、とサティシュは考えている。親は、いつでも子どもをコントロールしようとしてしまいがちだ。どうしても、自分が望むような人生を送ってほしいと思ってしまう。でも、子どもはいつかひとり立ちするものだし、そうしなければ自分の人生を確立することはできない。子どもを「手放す」ことは、親にとって最も大事な、究極の役割なのかもしれない。 (P156)
うーん、わかる。子どもはたぶん勝手におやばなれしていくのだろうけど、親が子離れするのは至難の技だ。
もうひとつの親としての難しさは、子どもの失敗を祝福できるかどうかだと思う。子どもたちは、失敗によってしか学ぶことができない。立ち上がろうとして転び、言葉も最初はうまく発音できない。何度も失敗して、やり直すことでうまくできるようになる。その過程を喜ぶことができるかどうか。祝福できるかどうか。それが親の課題なんだ。 (P156)
ここが難しいところ。子どもを守りたいからね。
アートという言葉の本来の意味は、何かをちゃんとやる、まともにやるといこと。いい仕事をすることだといってもいい。
たとえば掃除をするときでも、上手にほうきを使ってしっかりと床をきれいにすることができたら、それは『art of cleaning(掃除というアート)』だ。もし人を楽しませる素敵な話ができれば、それは『art of speaking(話すアート)』。料理だって、ガーデニングだって、大工仕事だって、美しく立派にやりとげることができたら、それはアートなんだよ。
そしてアートの中でも一番のアートとは、『art of living』、つまり生きるアートだ。 (P171)
アート、つまり良い仕事をやり遂げるために必要なのは、「C」で始まる三つの要素だという。その三つとは、コミット(commit/献身的に関わること)、ケア(care/思いやりをもって世話をすること)、コンティニュー(continue/続けていくこと)。 (P172)
ギフト(贈りもの)とは本来、『見返りを求めないもの』という意味だ。だから、見返りを求めて贈るものは、ギフトとはいえないんだよ。
私が君に、見返りを求めないギフトを贈る。君も、誰かに見返りを求めないギフトを贈る。そして私は誰かに、見返りを求めないギフトを贈る。君も、誰かに見返りを求めないギフトを贈る。そしてわたしは誰かに、見返りを求めないギフトをもらう。そういうことなんだ。
すべての人が見返りを求めないギフトを送り続ければ、結果としてすべての人がギフトをもらうことになるんだよ。 (P174)
そんな関係を、サティシュは木と果実に喩えた。木は果実をつくるが、その果実を木が食べることはない。ただ一方的に与えているだけなのだ。金持ちでも貧乏人でも、聖人でも罪人でも、相手が誰であろうと木は果実を与え続ける。
そんな木に、太陽は光を与え続ける。でも太陽は、その見返りにと果実を食べることはない。そうやって、自然界ではすべてのものが見返りを求めずに与え合っている。人間も同じことだ。 (P175)
すごくわかりやすい。なるほど。それが、ギフトだね。